BGKが発散する低粘性域を生き抜く方法 — MRT格子ボルツマンの衝突
単一緩和時間BGKの限界をモーメント空間の多重緩和で越えるMRT-LBM実装
同じ格子で同じ平衡分布へ緩和するのに、一方の衝突モデルは滑らかに回り、もう一方はチェッカーボード模様で破綻します。違いはたった一つです。BGKは9個の分布関数を一つの緩和時間でまとめて緩和させ、MRT(Multiple Relaxation Time、多重緩和時間)はそれらをモーメントに変換してそれぞれ別の速さで緩和させます。この記事では、その違いがなぜ安定性を分けるのかをD2Q9格子ボルツマンで追います。変換行列 で分布をモーメントに移し、粘性とは無関係な自由度を別に締め、低粘性でBGKが破綻する領域をMRTがどう持ちこたえるかをTaylor–Green渦で確かめます。
すべてを一拍で緩和させるBGKの弱点#
格子ボルツマン法(LBM)は、分布関数 が格子上を移動(streaming)し、各点で平衡へ緩和(collision)する2段階を繰り返します。最も一般的なBGK衝突はこう書けます。
ここで は速度 方向の分布関数、 は緩和時間、 は局所平衡分布です。粘性は 一つで決まります。
問題はここから始まります。粘性を下げる(レイノルズ数を上げる)には を に近づける必要があります。ところが になると、粘性と何の関係もない高次モードまでほとんど緩和されずに格子を動き回ります。これらのモードが格子解像度の限界で振幅を増すと、チェッカーボード振動が生じ、解析は発散します。BGKでは粘性の調整と安定性の調整が一つのつまみに縛られています。
衝突をモーメント空間で眺める#
核心となる考え方は単純です。9個の分布関数をそのまま緩和させるのではなく、まず物理的な意味を持つモーメントに変換してから緩和させます。モーメントは分布関数の線形結合です。
は分布関数ベクトル、 は の変換行列、 はモーメントベクトルです。衝突はモーメント空間で平衡モーメント へ緩和させ、再び速度空間へ戻します。
はモーメントごとの緩和率を並べた対角行列です。すべての を同じ値 にすれば、この式は正確にBGKへ戻ります。MRTはその対角成分をモーメントごとに別々に解くだけです。
D2Q9の9つのモーメントと変換行列M#
D2Q9格子(2次元、9速度)でのモーメントは次の9つです。密度 、エネルギー 、エネルギー二乗 、運動量 、エネルギーフラックス 、そして応力に対応する です。
このうち は衝突で変化しない保存量なので、緩和率を に固定します。残りの6つが調整可能なつまみです。Lallemand–Luoの標準変換行列は各行が直交するように設計されており、逆行列はノルムで割った転置として簡単に得られます。
平衡モーメントは密度と運動量だけで閉じます。
、 は運動量成分です。応力モーメント の平衡が速度勾配と結びつくため、これらの緩和率が粘性を決めます。
モーメントごとに異なる緩和率 — 粘性と無関係な自由度#
せん断粘性を決めるのは応力モーメントの緩和率 です。
要点は、残りの緩和率 (体積)、、(エネルギーフラックス)が粘性にまったく影響しないことです。これらは自由パラメータです。低粘性のために を に近づけても、高次モードの緩和率は安定区間 に別に保てます。BGKが縛っていた2つのつまみが分離します。
下のバーで緩和率を直接操作してみましょう。
ν = cs²(1/s_ν − 1/2) = 0.1111 (lattice units)を まで上げると粘性 がほぼ まで下がりますが、それでも は安定区間に保てることが分かります。保存モーメント()のバーが常に0に固定されていることも確認しましょう。
衝突はモーメント空間、ストリーミングは速度空間#
アルゴリズムの流れは次の通りです。
- 分布 から巨視量 を計算
- でモーメントへ変換
- 平衡モーメント を計算(密度・運動量から)
- モーメントごとの緩和:
- で速度空間へ復元
- ストリーミング: を 方向の隣へ移動
- 境界条件を適用して1へ
衝突だけがモーメント空間で起こり、ストリーミングはそのまま速度空間で進みます。追加コストはセルごとの 行列積2回だけです。
Python — Taylor–Green渦で粘性減衰を測る#
検証にはTaylor–Green渦を使います。この流れは粘性減衰の厳密解が知られているので、実装が正しいかを数値で確認できます。運動エネルギーは で減るはずです( は渦の波数)。
import numpy as np
# D2Q9 格子
cx = np.array([0, 1, 0, -1, 0, 1, -1, -1, 1])
cy = np.array([0, 0, 1, 0, -1, 1, 1, -1, -1])
w = np.array([4/9, 1/9, 1/9, 1/9, 1/9, 1/36, 1/36, 1/36, 1/36])
# Lallemand-Luo 変換行列 (行: rho,e,eps,jx,qx,jy,qy,pxx,pxy)
M = np.array([
[ 1, 1, 1, 1, 1, 1, 1, 1, 1],
[-4,-1,-1,-1,-1, 2, 2, 2, 2],
[ 4,-2,-2,-2,-2, 1, 1, 1, 1],
[ 0, 1, 0,-1, 0, 1,-1,-1, 1],
[ 0,-2, 0, 2, 0, 1,-1,-1, 1],
[ 0, 0, 1, 0,-1, 1, 1,-1,-1],
[ 0, 0,-2, 0, 2, 1, 1,-1,-1],
[ 0, 1,-1, 1,-1, 0, 0, 0, 0],
[ 0, 0, 0, 0, 0, 1,-1, 1,-1],
], dtype=float)
Minv = np.linalg.inv(M)
def d2q9_equilibrium(rho, ux, uy):
eq = np.zeros((9,) + rho.shape)
for i in range(9):
cu = cx[i] * ux + cy[i] * uy
eq[i] = w[i] * rho * (1 + 3*cu + 4.5*cu**2 - 1.5*(ux**2 + uy**2))
return eq
def relaxation_rates(nu):
s_nu = 1.0 / (3*nu + 0.5) # 粘性を決める緩和率
# 保存(rho,jx,jy)=0、高次モードは安定区間の固定値
return np.array([0, 1.64, 1.54, 0, 1.7, 0, 1.7, s_nu, s_nu])
def taylor_green_init(N, U0):
x = np.arange(N)
X, Y = np.meshgrid(x, x, indexing='ij')
k = 2*np.pi / N
ux = -U0 * np.cos(k*X) * np.sin(k*Y)
uy = U0 * np.sin(k*X) * np.cos(k*Y)
rho = 1 - 0.75 * U0**2 * (np.cos(2*k*X) + np.cos(2*k*Y))
return d2q9_equilibrium(rho, ux, uy), k
def macros(f):
rho = f.sum(axis=0)
ux = (cx[:, None, None] * f).sum(axis=0) / rho
uy = (cy[:, None, None] * f).sum(axis=0) / rho
return rho, ux, uy
def mrt_collide(f, s):
rho, ux, uy = macros(f)
jx, jy = rho*ux, rho*uy
m = np.tensordot(M, f, axes=([1], [0])) # モーメント空間へ
meq = np.zeros_like(m)
meq[0] = rho
meq[1] = -2*rho + 3*(jx**2 + jy**2)
meq[2] = rho - 3*(jx**2 + jy**2)
meq[3], meq[4] = jx, -jx
meq[5], meq[6] = jy, -jy
meq[7] = jx**2 - jy**2
meq[8] = jx*jy
m -= s[:, None, None] * (m - meq) # モーメントごとの緩和
return np.tensordot(Minv, m, axes=([1], [0])) # 速度空間へ復元
def stream(f):
for i in range(9):
f[i] = np.roll(f[i], (cx[i], cy[i]), axis=(0, 1))
return f
def run_mrt_lbm(N=64, nu=0.004, U0=0.04, steps=2000):
f, k = taylor_green_init(N, U0)
s = relaxation_rates(nu)
e0 = None
for t in range(steps):
f = mrt_collide(f, s)
f = stream(f)
if t % 400 == 0:
_, ux, uy = macros(f)
E = np.mean(ux**2 + uy**2)
e0 = E if e0 is None else e0
print(f"t={t:5d} KE/KE0={E/e0:.4f} analytic={np.exp(-4*nu*k**2*t):.4f}")
run_mrt_lbm()出力は、数値減衰が厳密曲線 と小数点以下2桁まで一致することを示します。同じ格子・同じ でBGKを回すと、より低い粘性で先に発散します。
BGKとMRTを同じReで並べる#
下のシミュレーションで粘性スライダーを下げ、BGK/MRTボタンで衝突モデルを切り替えてみましょう。
粘性を あたりまで下げてBGKのままにすると、格子に粗い模様が入り「diverged」が表示されます。同じ粘性でMRTに切り替えてresetすると、渦は滑らかに減衰します。両モデルが同じレイノルズ数を狙っているのに、安定限界が異なることが一目で分かります。
次に格子ボルツマンを触るとき#
MRTは魔法ではありません。粘性を決めるつまみ()と安定性を決めるつまみ()を物理的に分離しただけです。その分離が、低粘性・高レイノルズで格子ボルツマンの動作範囲を広げます。
3つだけ残します。第一に、BGKが低粘性で破綻するのは、粘性と無関係な高次モードも一緒に遅くなるからです。第二に、MRTは衝突だけをモーメント空間へ移してそのモードを別に締め、追加コストはセルあたり行列積2回です。第三に、実装が正しいかはTaylor–Green渦の 減衰でいつでも検証できます。
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